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2番館 2026年版

2番館。2026年以降に映画館以外で見た作品の批評です。更新は下から上へと順次なされます。基本的に見た順序で書かれていますが書きたい作品があるとき時間が前後することはあります。藤村隆史

評価 照明 短評 監督、スタッフ、鑑賞日、その他
LEUR DERNIÈRE NUIT
彼らの最後の夜(1953.10.23) 日本未公開
84  80 監督ジョルジュ・ラコンブ音楽フランシス・ロペス撮影フィリップ・アゴスティーニ役者ジャン・ギャバン、マドレーヌ・ロバンソン

とあるパリの下宿屋で出会った図書館の司書のジャン・ギャバンに素性不明の英語教師マドレーヌ・ロバンソンが巻き込まれてゆく。そのジャン・ギャバンが実はギャングでありなんの説明もなしに怪我をして下宿屋に帰って来てそれを英語教師はなんのためらいもなく手当てをしている。決定的な動機がなにも示されないまま女教師はギャングの逃亡へと巻き込まれてゆく。この実に平坦なギャング映画はフランシス・ロペスのメロディに乗せながらラブストーリーへと流れている。

この男は工場を襲撃するが裏切者の密告によって逮捕され、脱走し、女教師に匿われたホテルでその夜の汽車の切符をもらった彼は、裏切者を処分するために逃亡を一日先伸ばしにする。ここには心理的な思考もためらいも躊躇もなにも撮られていない。逃げようと思えば逃げられるにも拘わらずなんのためらいもなく裏切者を処分しに戻りそれがあだとなり、、この作品をマイケル・マンが見ているとは言わない。ただ、それをここではロバート・デニーロではなくジャン・ギャバンが演じている。それだけのことだ。映画史は実に面白い。

モーションピクチャーに筋立ての起伏を期待してはならない。運動はもともと未熟なものであざやかな筋立てなるものはモーションピクチャーには存在しない。映画はこれでいいというラインを忘れてはならない。

フランス映画史の本には殆ど姿を現さないジョルジュ・ラコンブ。しかし彼は現にこういう映画を撮っている。

「現金に手を出すな(TOUCHEZ PAS AU GRISBI)」の封切は1954.3.17。関係ないかもしれない。あるかもしれない。
ストレンジ・ダーリン
2023 米
50 60 監督JT・モルナー

奇抜な筋書だけで映画が撮れると信じているバカのうちのひとり。

こういう監督は定期的に出現してくる。
ラ・コシーナ/厨房
2024年メキシコ、アメリカ
50 78 監督脚本アロンソ・ルイスパラシオス

人とは違うことをしていると思って撮られている映画は多くの場合違うことが運動ではなく筋立てに過ぎないことに気づいていない。

リアルをはき違えている。。
Big Leaguer
ビッグ・リーガー 米
MGM 1953.8.19
84 80 監督ロバート・アルドリッチ役者エドワード・G・ロビンソン、ヴェラ=エレン、リチャード・ジャッケル。

ニューヨークジャイアンツ秋季キャンプの新人発掘テストの物語。

1941年、本人に言わせると「クズ同然の職種」であるところの雑用係としてRKOに入社して以来12年かかって掴んだ念願の監督デビューを果たしたこの作品はもちろんみずから選んだ題材ではなくスタジオにあてがわれた野球映画だが、「ロバート・アルドリッチ大全」に書かれているように運命のめぐり合わせとしかいいようのないアルドリッチ的運動が撮られている。

ピッチャーのリチャード・ジャッケルの投球は投げてからボールがホームベースに届くまでが何度も持続した1ショットで撮られている。映画のリアルとは内部のリアルでありこれがモンタージュやロングショットの吹き替えによって撮られていても内部のひとつであるにも拘わらずここを吹き替えもモンタージュもなしで撮るところにアルドリッチ流リアルの感覚を見ることができる。それだけでは飽き足らずキャメラに向かってボールを投げたりキャメラに向けてボールをノックしたりする。野球等のスポーツをどう撮るかはその監督の性向を見るうえで格好の細部を現すことになる。

「クズ同然」はアルドリッチばかりではない。赤狩りで干されて「クズ同然」の扱いをされ久方ぶりにこの作品で復帰したエドワード・G・ロビンソンがジュークボックスに合わせて奇妙に踊って見せた71分のこのB級映画には「クズ同然の職種」を体験した者にのみ撮ることのできる無名戦士たちの運動によって満たされている。そのエドワード・G・ロビンソンがリチャード・ジャッケルの投げたビーンボールに転倒しまるで「北国の帝王」(1972)のアーネスト・ボーグナインのように髪を振り乱しショット内モンタージュでキャメラに接近し大きなクローズアップでその鬼の形相が映し出されたとき、リチャード・ジャッケルのビーンボールはエドワード・G・ロビンソンのこの顔を撮るために投げられたのだと確信することができる映画史の傷跡がここに残されている。

エドワード・G・ロビンソンが姪のヴェラ=エレンと腕を組んでグラウンドの横を歩くシーンはおそらく夕方のアベイラブルライト(自然光)で撮られているが、ヴェラ=エレンが水着姿で浜辺を駆けてくるシーンでは横長に伸びた彼女の細い影と薄暗い光によって日の傾いたアベイラブルライトのけだるさの光が映し出され、三塁手のジェフ・リチャーズがバスで去ってゆくシーンでもバスの横長に伸びた細い影が夕闇のヴェラ=エレンとの別れと再会を照らし出している。このような薄暗い光はハリウッド的照明からは質的にずれているがそれを執拗に撮り続けているアルドリッチは撮影のウィリアム・メローと共犯でこのような夕陽の光を意図的にフィルムに収めている。もしこれがカラーフィルムならばスコット「トップガン(TOP GUN)」(1986.5.12)のあの夕暮れのオレンジのような光を撮ったに違いないと確信させるに足りる光への欲求がこの「クズ同然」の無名選手たちのフィルムに焼き付けられている。処女作からリチャード・ジャッケル、続いてダン・デュリエといった「クズ同然」の悪役の常連たちを主役クラスであっけらかんと撮ってしまうアルドリッチという監督は元スタープレーヤーの囚人、ミサイル基地に立て籠もった脱獄囚、12人の凶悪犯、汽車にただ乗りするホーボーと鬼車掌、どさ回りのプロレスラーとマネージャ、、といった「クズ同然」の者たちをフィルムに収めるととんでもないものを撮ってしまう。

アルドリッチはこの作品をあまり良い思い出としては語っていないがヒットしなかった作品を作家は人に言われる前に自分でけなす傾向がありそのまま信じてはならない。そうした作家の被害者意識を解きほぐしながらコミュニケーションされたのが「映画術」におけるトリュフォーとヒッチコックの対話である。

痕跡を残す余裕のない時間で瑞々しい痕跡を残している。
アンダーカバー
二つの顔を持つ女 
スペイン
la INFILTRADA
2024.10.11
86 84 監督脚本アランチャ・エチェバリア脚本アメリア・モーラ撮影ハビエル・サルモネス役者カロリーナ・ユステ、ルイス・トサル(上官)、イニゴ・ガステシ(同居するテロリスト)、ディアゴ・アニド(もう一人のテロリスト)

スペインバスク地方のテロ組織に潜入した女性捜査官の物語であり実話とのこと。

撮り方は少々荒っぽく頻繁なピント送りもなされているがアクションの過程においてなされるピント送りは会話主導のピント送りとは異質で運動の過程に溶け込んでいる。サスペンスは検問通過、平行モンタージュと持続による奇妙な同一画面などによる極めて古典的なサスペンスでありここでも「陪審員2番」のように古典的な方法が現代的方法と融合して撮られている。

現代映画では空ショットを制した映画がモーションピクチャーを制する。

初めて見るアランチャ・エチェバリアは1968年生まれのスペインの女性監督・プロデューサーでこの作品が長編監督5作目とのこと。スペインにはこういう活劇を撮ることのできる環境があるらしい。

近景、特に古典的デクパージュ的人物配置で外側から切り返される時に照明が劣化する。こういう現象は古典的デクパージュ的外側からの切り返しが169ショット撮られている「陪審員2番」にも妥当するがアベイラブルライトを使う昼間の明るい光で近景から撮るときその傾向は顕著になる。その場合、光源はひとつに限定されることから一方への光を優先させるしかなく仮に主人公カロリーナ・ユステへの光への配慮が100だとすると男たちへの光は30程度であり男が優先されたのは潜入捜査官カロリーナ・ユステが同居するテロリスト(イニゴ・ガステシ)と二人でボードゲームをしている時にテロリストの彼が自分の夢を語り始める時に彼へのバックライトが窓の外から当てられているシーンだけでありそれ以外のシーンで古典的デクパージュ的外側からの切り返しにおける男性陣への光は殆ど顧みられておらずバックライトその他はすべて女性陣に当てられている。古典的デクパージュ的人物配置は物語の要請からなされる夢の工場的人物配置であり運動の要請からなされる配置ではなく運動を加速させることは決してない。

それにも拘わらずこの作品は「陪審員2番」のように常に運動が物語に先行し見ることの映画としてサスペンスを継続させている。こういう古典的な活劇を撮ることのできる監督は今の日本にはいない、
陪審員2番
JUROR #2 米
2024.10.27
82 80 監督クリント・イーストウッド撮影イヴ・ベランジェ役者ニコラス・ホルト、トニー・コレット(検事)、キーファ・サザーランド(弁護士)、

最初の30分で真実の80%を明かし20%のミステリーを装ったサスペンスが撮られている。

本来なら陪審員を忌避されるべき人たちばかりを集めて議論させているなど物語の語り口はハリウッドの大きな物語の因果に沿った古典的な語り口でありながら古典的ハリウッド映画ならば撮られていて然るべき決定的なシーンが最後まで撮られず、事件当夜の回想もまた断片的なショットとして撮られていることから「起源」へと遡ることはない。古典的な大きな物語を2024年の小さな物語の画面で撮るという芸当にイーストウッドの痕跡が現れている。

真実はある種のマクガフィンでありそこへと至ることを目指す過程が運動となる。裁判映画は真実へと遡ることにおいて画面が消えるが過程の映画である限り運動の映画足りうる。裁判映画はこうして撮るしかない。法廷、陪審員室、酒場、家、事故現場、、場所が断片として残っている。

運動が物語に先行している。

キャメラマンがトム・スターンからイヴ・ベランジェへ交替して以来イーストウッド作品の照明は改善されつつあるが(これについてトム・スターンの責任のみには見えないことはロバート・ロレンツ「プロフェッショナル」の2025年二番館で書いている)本作の場合、昼間の室内では基本的に外からのアベイラブルライト(自然光)を使いそれをランプシェードなどで補っているが陪審員室での光など室内の光にはいまひとつ乗っていけない。

トム・クルーズ
主人公のニコラス・ホルトが弁護士キーファ・サザーランドにある告白をしたあと「名乗り出れば人生は破滅する」と言われて切り返されたニコラス・ホルトはトム・クルーズになりきっている。
BLOOD ON THE SUN
東京スパイ大作戦
(1945.5.2)
74 82 監督フランク・ロイド脚本レスター・コール撮影セオドア・スパークル、役者ジェームズ・ギャグニー、シルヴィア・シドニー、ウォーレス・フォード

「東洋のヒトラー、田中義一」の陰謀の書かれた秘密文書を東京在住のアメリカ人記者ジェームズ・ギャグニーが追うという物語でシルヴィア・シドニーが日本人と中国人の混血を演じ「港々に女あり(A GIRL IN EVERY PORT)」(1927)のロバート・アームストロングが東条英機に扮するという作品であり(最後まで彼がロバート・アームストロングであるとは夢にも思わなかった)、オープニングからしてこれはガチガチの反日映画になると思いきやアメリカ側からも裏切者が現れてギャグニーに殴られたり、レストランの日本人の給仕に対するギャグニーの接し方ひとつにも反日映画としての蔑みは現れておらず最後にはギャグニーの柔道による決闘が延々と撮られているように意見ではなく運動の映画が撮られている。そのシークエンスにおける川のセットとその撮られ方、ラストシーンの夜の雨に濡れた舗道のロングショットは間違ってもこの作品がただのプロパガンダではないことを現している。

中盤少し緩んだように見えるがその後も淡々と断片的な細部を積み重ねることでふたたび加速している。

こういう作品をこのように撮るフランク・ロイドという監督の映画に対するひとつのあり方が露呈している。
新天地
WELLS FARGO
米 1937.12.31
82 82 監督フランク・ロイド役者ジョエル・マックリー、フランシス・ディー、ボブ・バーンズ、ラルフ・モーガン、ロバート・カミングス

西部劇

今、いてほしいのはこういう映画の撮れる監督。ほとんどみずからの痕跡を残さずアメリカン・エキスプレスの創始者の一人(ジョエル・マックリー)の半生記を97分の運動の映画で撮れてしまう、ジョン・フォードにはできない断片の極致。

フランク・ロイド、監督デビューが1914年でラオール・ウォルシュとほぼ同期。

運動は断片に宿る。これ以上を求めると少しずつ映画は傷つけられる。
エイリアン:ロムルス
2024 米
40 50 監督フェデ・アルバレス、女優ケイリー・スピーニー

歴史にそのフィルムを刻んだアレックス・ガーランド「シビル・ウォー アメリカ最後の日(CIVIL WAR)」(2024)のケイリー・スピーニーだから何とかなるかもしれないとは思わなかった。どうせだめだろうと思った。やっぱりだめだった。

フェデ・アルバレスは「ドント・ブリーズ(DON'T BREATHE)」(2016)がそれなりに楽しめる。
憐れみの3章
KINDS OF KINDNESS
2024英ほか
40 60 監督ヨルゴス・ランティモス

残酷その2~クローズアップは9割の作家を2流だと自白させることになる。

その3~そこからさらにクローズアップへと切り返されると作家たちはほぼ全滅する。

その4~残酷とは当人たちがそれに気づいていないことだ。
NON COUPABLE
偽りの果て 仏
(1947.9.24) 日本未公開
80  80 監督アンリ・ドコアン役者ミッシェル・シモン、ジャニー・オルト

飲酒運転で死亡事故を起こした男が逃げ伸びてその後、見事な完全犯罪を続けてゆくという物語。完全犯罪を映画に撮ることは不可能なので2回目と3回目の「完全犯罪」のシーンは撮られていない。やや大きなクローズアップが入るが透明な運動に集約された面白い物語映画。

こういう作品が未公開というのは日本らしい。フランス流の皮肉な結末で最後の5分はカットしたいところだが某映画雑誌の1947年のベストテンなら「断崖(Susption)」(1941.11.8)の次、、「荒野の決闘(MY DARLING CLEMENTINE)」(1946)の上に入っていてもおかしくない。一般論として「悪魔のような女(LES DIABOLIQUES)」(1955.1.29)のようなつまらないサスペンスよりは数段上である。
珊瑚礁
LE RÉCIF DE CORAI
 1939.3.1
80 86 監督モーリス・グレイズ脚本シャルル・スパーク役者ジャン・ギャバン、ミッシェル・モルガン、ピエール・ルノワール、ジュリアン・カレット、ガストン・モド

モーリス・グレイズ(Maurice Gleize)は日本では殆ど無視されているので骨を拾う。

くだらないと感じながらちっとも弛緩しないで最後まで突き進む。理由を説明しない。なぜギャバンは人を殺したのか最後までよくわからない。そのギャバンを逃がした女の動機も終盤になってやっと刑事のピエール・ルノワールの口からそれとなく明らかにされるだけで決して深入りせず女はあれっきり出てこない。セリフも少なく断片によってシークエンスが切り取られているので心理的にならない。ミッシェル・モルガンが後半になって初めて出てくるのもこの作品が断片によって撮られていることの証のひとつ。

モルガンに特権的な光が当てられている。

ラストシーンは断片のひとつに過ぎない。

カルネ「霧の波止場(LE QUAI DES BRUMES)」は1938.5.17封切り。
侍タイムスリッパー
2023 日
10 20 監督安田淳一

映画以外のなにか。

見学者が出て行ったあとそのまま撮りました、というセット。

ネタしかない。

すべてにおいて老人化している。
ウエスト・サイド・ストーリー
2021 米
50 50 監督スピルバーグ

視点がない

スターがいない

画面がない

ショットがない
面の皮をはげ
MIROIR 仏
1947.5.2
80 80 監督レイモン・ラミ撮影ロジェ・ユベール役者ジャン・ギャバン、ダニエル・ジェラン、ジゼール・プレヴィユ、マルティーヌ・キャロル

原題MIROIR。ミラーという名のギャング(ギャバン)が名前を変えて実業家になり死んだと思われていた仲間の息子(ダニエル・ジェラン)を育てているという物語だが物語映画としてのギャング映画としての質を備えている。

以前見ているはずだが先入観でよく見られなかったか。

詩的リアリズムでもなくがちがちのギャング映画でもなく家庭をそれなりに撮りながらの静かな展開は「The Godfather(ゴッドファーザー)」(1972.3.14)へと受け継がれているのかもしれない。

レイモン・ラミは監督としてよりも編集者としてロベール・ブレッソン「スリ」、「少女ムシェット」などの編集で知られているが監督としてのこの作品を無視することは映画史を捻じ曲げることになる。

カジノ、女子プロレス、ボクシング、息子の結婚式、、と淡々と進んでゆくジャン・ギャバンそのひとの世界。

フランス映画パーフェクトコレクション「ジャン・ギャバンの世界第一集」はデュヴィヴィエ「逃亡者(THE IMPOSTER)」(1944.2.10)、アーチー・L・メイヨ「夜霧の港(MOONTIDE)」(1942.4.29)、前半が素晴らしいジル・グランジェ「ラインの処女号(LA VIERGE DU RHIN)」(1953.11.13)など、権威が推奨する以外の作品にこそ価値を伴う逸品である。1800円。笑、、、
逃亡者
THE IMPOSTER
(1944.2.10)
 米
ユニヴァーサル
90 86 監督ジュリアン・デュヴィヴィエ撮影ポール・アイヴァノ役者ジャン・ギャバン、ジョン・クゥオーレン、リチャード・ホーフ、

フランスがドイツに占領されアメリカへ亡命したジャン・ギャバンがアメリカのユニヴァーサルで英語を話すフランス兵を演じたアメリカの戦争映画をフランス人のジュリアン・デュヴィヴィエが撮っている。

このハリウッドの透明でグローバルな作品は見ただけでフランスのジュリアン・デュヴィヴィエが撮ったとわかる者は世界に一人もいないと断言できる。まるでジョン・フォードが、、あるいは最良のマイケル・カーティスが撮ったかのような無名兵士のエモーションを画面に焼き付け1944年世界のベストテンに入る作品として現前している。

元旦からこの作品を引けるとは、、まさかデュヴィヴィエが、、

アメリカとはこういう場所なのだろう。作家は最初の痕跡を消されて透明にされる。そしてあとから残ったことのみがその作家の痕跡として語り継がれてゆく。それがグローバルとなり伝説となる。

ジャン・ギャバン本人がこの作品を気に入らなかったという理由でこういう作品を簡単に映画史から抹殺してしまう批評から別れを告げて現在の鼓動としてこのジュリアン・デュヴィヴィエの「最高傑作」を体験できてしまえる環境が今や整いつつある。

2026年元旦
夜霧の港 MOONTIDE(1942.4.29) 米
20
世紀フォックス
72 80 監督アーチー・L・メイヨ(フリッツ・ラング)役者ジャン・ギャバン、アイダ・ルピノ、トーマス・ミッチェル、クロード・レインズ

アメリカに亡命中のジャン・ギャバンが出演した2本のアメリカ映画うちの1本らしく(もう一本が↑デュヴィヴィエ「逃亡者」)、ここにアイダ・ルピノ、トーマス・ミッチェル、クロード・レインズという名前がかかわっている。

ジャン・ギャバンはどこへ行ってもジャン・ギャバンだからこそアメリカに適合せずデートリッヒと浮名をはせただけでフランスへ帰ってゆくのだが(その前に入隊もしている)この作品は中盤まではジャン・ギャバンとアイダ・ルピノの存在感だけで一片の緩みもなく進んでいる。

■補 ギャバンとアーチー・L・メイヨが対立し最後の4日間はフリッツ・ラングが撮ったとのこと。